ランチの椅子使用料金と子育て支援について
イルピアット紙屋川のランチタイムでは、ご注文のない方には椅子使用料金を提示しています。「注文しなくて椅子を使う人がいるの?」と尋ねられる事もあります。小さなお子さま連れのお客さまはお子さまを椅子に座らせる必要があるため、お子さま分のご注文なく椅子を利用される場合があります。その場面を想定した表示です。こんなことを書くと、「社会で子育て支援」というムードに水を挿すのじゃないかという声も聞こえて来そうです。私の考えでは、お子さま分のご注文がなければ「お客さまとして扱えないのです」という表示でもあります。言い換えれば、「お子さまのご利用環境を保障します」ということです。料金がかからないことを「子育て支援」だと思っていません。行政サービスはそうある事も政策の一つです。私たち民間は政策を実現する立場にはありません。
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もし、国や行政が本腰で子育て支援は無料(もしくは割引)という政策を取るなら、私たちが医療制度のように国へ「これだけ子育て支援をしました」と申告する仕組みを求めたいです。国からの援助を受けてお子さま用の椅子やカトラリーを整える。空間の使用料金も設定する。そうした支援を全て整える代わりに、かかる費用は申告して支援してもらう。ここまでしてくれるなら、最初の表記も必要ありません。いわゆる、民間に委ねられている子育て支援は「お願い」な訳ですから、制度としてそれを表示できる仕組みをきちんと整備できて初めて同じテーブルでの議論になるでしょう。
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どうも「お子さまは無料です」という風潮は、行政サービスの浸透により違う風潮も植え付けてしまっています。無料で利用できるのはあくまでも行政施設であって、民間機関が自発的に「子どもに優しい」というイメージを発信するのは集客を図るための戦略でしかありません(社会インフラは別です)。イルピアット紙屋川はそうした戦略を持っていません。ですから、「子どもの利用はできますか」と尋ねられる際には「もちろんです。ですが、お子さま用に何かを用意していません。」と回答しています。「子どもに手厚いサービスがありますか」と尋ねる方はありませんが、私の回答は「子どもだからと手厚いことはありません」という文脈です。必要な時はそのようにご説明しています。
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細かな話になりますが、ランチでは「Aセット950円」にてご用意をしています。このセットはサラダプレート650円、パスタ650円の単品がお得なセットとして提供されています。椅子の使用料金は650円ですから、お分かりでしょうか。セットひとつご注文で椅子を二脚使用される場合は単品ずつのご注文がベストです。セットと椅子の料金までをお支払いいただかなくても結構なのです。書き方は色々ありますが、お店が言いたいことを一番表示できているかなと思います。
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ある時、ご来店いただいた方に同様のご説明をさせて頂きました。お子さま連れでない方とご一緒で数人のご来店でした。私の説明を聞くなり顔が曇りました。「子どもを膝の上に乗せるならいいですか。」と強い調子でおっしゃいます。「もちろんです。」私はその際にそれ以上口を挟みません。子どもの快適さを親が保障すべきで、私の価値と意識で物を言うのは過ぎたことです。親の快適さも同様です。選択できるのです。ご利用される方がコストを考えて選ぶのがいいと思います。繰り返しますが、私のお店は行政サービス機関ではありません。
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カウンター席に座り程なくして何の断りもなく、堂々と、当たり前のように、持参した子ども用の食事を始めました。いつからここは行政サービスの空間になったのか。その想像力がない。友人の家に行っても黙って子どもの食事を始めるのだろうか。どうして一言「持参した子どもの食事をさせてもらっていいですか?」とお話しいただけないのだろうか。一言いただければ気持ちのいい事なのに。こんな指摘は「育児は余裕がないのだから仕方がない」と叱られそうですが、私は仕事中で他のお客さまと同様のサービスを考えているに過ぎません。私に余裕がなければ許されることが増えるのなら別ですが、その場合は顧客を逃すリスクも内包してのことです。私は「育児には余裕がない」と言い過ぎる風潮も嫌いです。結論、私はその方に注意などしませんでした。ランチに来て注意されるのも違うと思います。
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何かを獲得したり利用する際のコストカットを単純に「子育て支援」と言うことと、周囲への配慮を欠く様子を弁明する「育児に余裕がない」と言うことの関係は、あたかも「コストがかかるから余裕がない」かのようにも聞こえてきます。コストカットの事と、周囲への配慮の欠如は違うもののはずです。コストカットは行政がすればいい。周囲への配慮欠如は、その人のそれまでの生活に関わる倫理と怠惰のせいであって、周囲の無関心が原因ではありません。きちんとできる人も多くいます。そこに目を向けて私が優しく注意したところで聞く耳を持ってはもらえないのが現実です。行政のコストカット支援と民間に委ねられた手厚いサービス希望を「子育て支援」だと解釈している人に私が説明しても理解してもらえるはずはありません。「私は子どもを育てているのだから支援されるべき存在だ」という意識を強く表示する人とは関わりたくありません。
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子育ては大変ですが、楽しいことでもあります。子どもとの距離をきちんと考えつつ、周囲に助けを求めつつ、理解を促しつつ、社会の意識と戦うかのような現象です。ですが私は間違った子育て支援をするつもりはありません。私は子どもを早い段階からコストがかかるものだと認識しています。「コスト」という表現が嫌なら「お金がかかる」でもいいでしょう。私にすれば同じことです。子どもにはお金がかかります。それだけに、同じだけの権利を保障しろと叫べばいい。堂々と言えばいい。「こっちは子どもだって同じ料金払っているんだ」と言えばいい。同じテーブルにつかせないようにしてしまうサービスが周囲の反感を買う原因になっていると思う事が多くあります。子どもは特別な存在です。ですが、育児する親はだからと自身まで特別だと思うのは浅はかかと思います。
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子育てする親は周囲への配慮をするあまり、自分たちの快適さは損なわれてしまう事があります。しかし「それを保障するから子どもを産んで育ててください」とまで懇願する必要はないと断言します。子育てに関する現象を全ての子育てする親に平板かつ均等に当てはめる感覚もおかしいと思います。学力も所得も生育環境も違うことを我々は知っています。ニーズは違うはずです。昨夜、二条駅近くでだらしなくしゃがみながらタバコを吸っている若い母親の足元に子どもがいました。ニーズは違うはずです。子育てをする人への支援は周囲の関心無くしては成り立ちませんが、難しい場面もあります。親が快適さを損なわれるのは自明と言っているのではありません。変化による快適さを考えようと言うのです。小学生と高校生では求める快適さは違うはずです。同じ快適さを希求する自由はありますが、子どもを育てる変化を受け入れがたい人たちには苦慮します。子どもによって損なわれる快適さ以上に、子どもによって得られる快適さは比較になりません。
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イルピアット紙屋川ではランチタイムに椅子の使用料金を設定しています。それはコストがかかる事ではありますが、同じように扱われる保障でもあります。そしてその場合、私にも気持ちはありますから他のお客さまよりも手厚くなってしまいます。小さな子どもが親の快楽に付き合わされているのです。そこに対する敬意と配慮を持っています。お子さまのご利用は可能です。ですが、同じように料金が必要です。その上で、私たちができる「子育て支援」を考えています。育児についてお答えできる内容があればお答えします。何なりとお話しください。ご利用をお待ちしています。