ミズタニ行進曲
私は豊橋の暮らしが嫌で、どうしたら抜け出せるかを考えて育ちました。ボロい借家に家族4人。物も多く、一向に片付かない家。トイレもお風呂もピカピカなんてことはなく、たまに友人の家に行って目の当たりにする洋式トイレだったり、お風呂の綺麗さだったり、居間の広さだったり、採光の多さだったり、天井の高さだったり、そういった暮らしにまつわる全ての差異に劣等感と憧れを抱いていました。風呂場には雑草が生えたり虫が出たりが日常でした。高度経済成長期に日本全土から姿を消していった劣悪な環境をそのまま残したような暮らし。バブル経済なんて存在していません。そういう暮らしが嫌でした。
小学生の時、周辺にあった等しい家屋は区画整理で取り壊されて行きました。私の家は区画整理から外れました。家の近くには大きな幹線道路ができました。近所で一緒に遊んでいた友達も、学年が上がると遊ばなくなりました。ファミコンが登場し、遊び方も大きな家の子の所へ集まるように変化していきました。私は自然と遠ざけられましたし、兄は少し前から人と上手く付き合えない印象でした。私の家にもファミコンはあったのですが、カセット(ソフト)が更新されず長い間を同じゲームばかりで遊んでいました。ゴルフとベースボールでした。友達の家には沢山のソフトがありました。
高校を工業高校にしたのも卒業して直ぐに就職するためでした。就職の際に取りこぼしがない職種で、自身の特徴を活かせる作業を考えて建築科を選びました。昔から絵を描いたり物を作る事が好きでしたし、機械油よりも木の香りの方が好みでした。何よりも「設計士」という響きは、自分の今の暮らしを遠ざける力を感じました。周囲も短絡的に「設計士は儲かる」などと吹聴しました。高校の入学祝いに母がCDコンポを買ってくれました。くじを引いてCDがもらえるキャンペーンをしていて、私はユーミンの「Love wars」をもらいました。今でもそのCDは手元にあります。毎日、毎日、ユーミンを聴きました。ラジオも好きだったのでよく聴きました。製図の課題はオールナイトニッポンを聴きながら描いていました。古田新太のオールナイトニッポンが大好きでした。
工業高校ではなぜか成績が良く、地元の大きな設計事務所に就職ができました。大きな結婚式場や豊橋市の消防署などを設計する様な設計事務所です。同期入社は専門学生で年上でした。私はこれまでの暮らしを抜け出せる予感がしていたし、早く一人暮らしがしたかった。入社して1ヶ月ほど過ぎた時に社長と幹部の人と焼肉を食べる機会がありました。社長は信長が好きで、熱弁を振るう人でした。「東三河、いや、愛知で一番になる」という志がある人でした。焼肉を食べている時に私は自分の箸で肉を網で焼きました。しばらくそれを見ていた社長が「水谷くん。君が焼いている肉を私は食べていないのが分かるか?」と言いました。私は何のことか分からなかったのですが「箸を逆さにして焼くことも知らない」と指摘されました。「だからたかが水谷家なんだ」と言われ、自分の中で何か折れるというか切れるというか、潰れた気がしました。食事の後、幹部の人に私は泣きながら「何も知らないのにあんなことを言われて、我慢できません」と談判し、会社を辞めると言いました。翌日、社長に直接「辞めます」と伝えて退社をしました。
私は自分の家に強い劣等感を抱いていましたし早く抜け脱したいと思っていましたが、居心地は良かったのだと気付きました。「たかが水谷家」という言葉に打ちのめされてしまった。何も整っていない暮らしを見透かされ、罵られた気分でした。同時に、「やはりそうなのか」と蓋をしてきた感情が決壊してしまった。「悔しいだろ?悔しい感情は君を成長させているんだ」と社長は言っていましたが、今振り返ってもそれは違うと思っています。(余談ですが、私は「信長が好き」という経営者に何人も出会って来ましたがファンタジーだと思っています。私は信長なんて大嫌いです。)隠したかった素性を見抜かれた恥ずかしさと罵られた悔しさ。「自分は違うものになろう」と強く思いました。
社長に退職を告げたその足で高校へ行き、次の設計事務所を見つけて直ぐに再就職しました。工業高校では「もうあの設計事務所には就職できなくなる」と大騒ぎでした。課題図面のお手本を描いた先輩が就職していましたし、私が就職して得るはずのパイプも無くしてしまいました。高校には悪いことをしたかも知れませんが、働くことは自分を壊してまで続けるべきではありません。自分の何かを潰して、壊してまで身を置く必要はこの世の中のどこにもないはずです。18歳の水谷少年は自分を「違うもの」にしたかった。生活の全てを一から作り直そうと考えました。恥ずかしくない、罵られない、バカにされない、そんな人間になりたかった。再就職をして数ヶ月後に一人暮らしを始めました。手取り月給10万円でした。この金額が私の自由の範囲でした。家賃を払い、車のローンを払い、光熱費を払い、食費を捻出し、お小遣いを作り、貯金もしました。お小遣いは10000円ほどあり、当時の自分には贅沢でした。
つづく