ミズタニ行進曲3
豊橋に帰省中、私は車で事故をします。フロントが潰れたものの、何とか自走できる。名古屋の車屋さんへ運ぶためにツヨシが一緒に来てくれました。名古屋から豊橋へ向かう道すがら、車内ではspecialsやthe boomなどが流れていました。私の知らないアーティスとも多く流れます。とても楽しかった。とても心強かった。その日の朝、部屋まで来て寝ている私を叩き起こし、「ほら!よしお君!行くで!!」と言ったツヨシ。頑なでややこしい水谷青年と彼は上手く付き合ってくれました。私はツヨシが働いてくれているなら頑張れる思いでした。今振り返ってみても、当時の私にはツヨシが支えでした。沢山の友人に囲まれて、いつも周りに人がいて、明るくて、元気付ける。そんなツヨシは「名古屋の生活は合わない」とこぼしてもいました。「ボクはな、京都がイイねん。本当は京都の大学に行きたかったんよ。」それでも私は、ツヨシが名古屋で良かったと自分勝手には思っていました。
1996年9月24日。ツヨシは死んでしまいます。その少し前から様子が違ったのですが、彼の部屋でアトランタオリンピックを見たのが最後でした。私は最後にツヨシが見た景色が知りたくて、知りたくて、その場所を探し回った事もありました。どの建物だろう。結局、見つかりませんでした。葬儀の日は働くシフトでしたから参列しませんでした。後輩スタッフが「よしおさん、変わりましょうか」と言ってくれたのに、私は「シェフがいいと言わない」と普段通りに働きました。今ではそれで良かったと思います。長い時間悔やみましたが、今はそれで良かったと思います。後日、大橋くんと嵐の中を飛行機で高松まで行って仏壇のツヨシと対面しました。私はずっと泣いていました。泣いて、泣いて、泣いて、このまま身体が溶けてなくればいいのにと思うほどに泣きました。毎日泣いて、腑抜けてしまいました。ツヨシが居なくなってしまい、私は途端にコックを辞めてしまいたい気持ちになります。
翌月の末にガルゴッタガウディオを辞めました。半年ほど刈谷市のトヨタ車体で期間工になり働きました。暴走族の元ヘッドや自衛隊上がり、期間工で生計を立てている人、色々な人がいました。様々な人間に会いました。私はよく働きました。何度か表彰もされ、社員に誘われる事もありました。当時の私はお金を貯めて岡山か香川へ行こうとぼんやり考えていました。岡山は土肥くんの出身地だし、香川はツヨシの出身地。瀬戸内海には私の好む人間がいると考えていました。高松のツヨシへ線香をあげに行き、帰りに岡山の設計事務所を訪ねたりして名古屋へ帰ったある日。1件の留守電が入っていました。「よしお、ガルゴッタを辞めたと聞きました。連絡ください。」名古屋の千種にあるパスタピッコラのオーナーからでした。
話を聞くと、西宮にパスタピッコラを作りたいと言います。私は岡山あたりで設計事務所に入って働こうかと考えていると伝えました。まだ具体的には決まっていません。期間工が終わる目処が立っていたので、次は何となく岡山かなと思っていました。「岡山の途中に西宮があるから寄ってけよ。」お店の立ち上げをしてから岡山へ行けばいい、そんな話でした。再び、料理か・・・。ツヨシに線香をあげて帰った日の留守電だった事が引っ掛かりました。「もう一度料理をしようぜ」と言っているようだと解釈して、頂いたお話を受ける運びになります。西宮店を作っている間に千種の店舗で料理内容などを覚えました。その時のシェフは、私が務める前のガルゴッタガウディオで料理を作っていた松尾さんでした。
松尾さんは明るい人でした。あっけらかんとしていて気持ちの良い人でした。こんな風に料理を作る人がいるのか、と驚いたことを覚えています。松尾さんのように調理がしたい。この人となら料理を楽しく展開できるはずだ。私が料理の「師匠」と呼ぶのは松尾さんです。料理の楽しさを教えてくれた人。カウンター越しに展開される小気味好い会話も、調理のスピードも、料理のサービスも、どれもがガルゴッタとは違いました。パスタピッコラはパスタがメインのお店でしたが、前菜が少しありました。分かりやすいメニュー構成で、円町イルピアットはこの当時をモチーフに作られました。料理が楽しい。認められる事も心地よかった。「さすがだね」とスタッフから言われると嬉しかった。ガルゴッタで養った技術が活かされるなんて思っても見ませんでした。西宮で頑張ってみようと思いました。
西宮ではスタッフのトシと共同生活でした。トシは名古屋から来た年下の男子でしたが、海外留学経験もある「デキる人物」でした。会話は軽やかで、サービスも上手、顔立ちも男前で、何となく自信のある佇まい。そのどれもが私にはないものでした。私の頑固さはお店を任されるようになると顕著になりました。トシの軽やかさとはバッティングしました。それでも、彼は上手くやり過ごせる人物でした。本当にすごい才能です。胸の内でも、頭の中でも、トシには敵わないと思っていました。私は料理の担当で店長のようなポジションでしたが、トシが店長になるべきだと思っていました。西宮のパスタピッコラは何とか立ち上がり、お客さまも繰り返しご利用くださる方が増えました。社員として未経験で私の年齢一つ上のアキラくんが入ってきて、トシとの関係も変化します。
この当時、豊橋では兄がカードローンを繰り返し多重債務に陥ります。それまでにも何度か「お金を送ってほしい」と母から頼まれる事がありましたが、その依頼は全て兄の借金返済だったと知ります。いよいよどうしようもなくなり母が「もう離婚して私は逃げる」と電話で泣いた事がありました。私は全く事態を聞かされておらず、一から話を聞きました。兄がカードローンをして、借金に借金を重ねたと言います。理由はゲームを買うためだったり、売ってみてはお金にならずまた借りてだったりと言います。両親も昔からパチンコが辞められない性格で、父は借金してパチンコをするような人でした。幼い頃、私たち家族は愛知県の大治町という所に一戸建てを構えて暮らしていたそうですが、父が賭けマージャンをして家を取られてしまいます。その結果、夜逃げをして行き着いたのが豊橋でした。
豊橋へ行き着いたものの、借金は無くならずヤクザが家まで来て父を「借りていく」と言って連れて行きました。その時、「親父がいなくなると泣くから」とヤクザはトミカパーキングを置いて行きました。私が2歳の時です。連れて行かれた父は、祖父が裏から手を回して事なきを得ますが大騒動だったそうです。祖父は戦後の混乱期に衣料で儲け、パチンコ屋をして、不動産屋を構えた人物でした。笠松競馬場に馬を二頭保有し、羽振りが良く、色々な人脈があって黒い噂もあったそうです。私はほとんど祖父の記憶がありません。正月に行っても会話をした記憶がありません。父は祖父が怖かったそうです。父はギャンブルというギャンブルを全てしました。「ドラゴンズの選手と麻雀した事がある」というのが自慢でした。みかん狩りと言っては子どもの私たちを使いみかん狩りのバイトをし、トマト狩りと言ってはやはり同じでした。そんな父の背中を見て育った兄が多重債務になった。
私はすぐさま、「破産の方法」という漫画を買って豊橋へ送りました。家庭裁判所へ行き、手続きを始めるように指示しました。そのかかる費用は全て持ちました。どれだけのお金を送金してきたのか知れません。自分も豊かではないけれど、豊橋の家が火の車状態なのを鎮火するのに必死でした。私はこのままだと自分で貯めてきたお金が底をつくと考え、「お金が使えるうちにイタリアへ行っておこう」とイタリアへひとりで旅行へも行きました。破産手続きは進み、ひと段落です。私はこうした現象になる事の理由が分かっていませんでした。どうして自分の家族は繰り返してしまうのだろうか。社会ってなんだ。どういう仕組みになっているんだ。その問いについて「よしおさんが考えている疑問の答えは社会学にありますよ」と泰三が教えてくれました。
西宮北口には多くの大学生がいました。神戸女学院、武庫川女子、関西学院大学、甲南大学、大阪大学、神戸大学などなど。泰三は関学の社会学部でした。ピッコラのお客さんとして来店し、仲良くなりました。他にも、神学部のレン、神大のナナ、アルバイトで関学生だったタカオ、鎮西、市場。私の周囲にはいつも大学生が多くいました。彼らから聴こえてくる大学生活は私の欲しいもの、そのものでした。友人らとおしゃべりし、食事をし、遊び、時間をゆったり使う。知的好奇心への解答も大学にはあると言い、キャンパスは自由な雰囲気だと想像しました。土肥くんやツヨシと接する中で抱いた強い憧れがそこにはありました。
ピッコラが軌道に乗り始め、私はオーナーと反りが合わなくなって行きます。軌道に乗り始めたお店への課題が日に日に増して行きます。複雑な料理を求められ、価格帯を上げるように指示され、客単価を向上するように求められます。至極、真っ当な事です。今になって振り返れば当たり前の事です。当時の私にはそれらが「無茶な要求」に聞こえました。私より10歳ほど上のコックやスタッフが名古屋で次々と辞めました。そして彼らは廃業し、他の職業へと転職して行きました。要請された課題に応えられなければ辞めざるを得ない業種。そんな事が頭の中で大きくなりました。私は自分の家族に巻き起こっている現象も、辞めざるを得ない現象も、同じように考えるようになりました。そしてそうなる理由は「知恵がないからだ」「社会の仕組みを知らないからだ」と考えました。「その答えは社会学にある」と言った泰三の言葉に背中を押されて、私は大学受験を夢見るようになります。
レンが「社会人入試があるよ」と教えてくれました。とにかく、受けられる所は全部受けてみよう。社会学部だ。関大と立命が社会人入試枠を持っていました。神大のナナに英語を基礎から教え直してもらい、小論文は高校時代の現国の先生にfaxで習いました。本を読み、勉強をしました。アルバイトの鎮西が「どうして大人は嫌々働くんですか」と詰め寄ってきた事がありました。彼の目には私が嫌々働く存在に映っていたのです。大学受験は秘密裏にしていました。スタッフの誰にも秘密です。同居のトシにも秘密です。受験票を受け取ることには注意を払いました。私は鎮西にだけ打ち明けました。「大人は黙って働くだけじゃない。ワシは大学受験して今を変えようと思う。」鎮西は翌日、北野天満宮へ行き「勤学御守り」を買ってきてくれました。その御守りを今でも持っています。本当に心強い御守りでした。自分は一人じゃないような気持ちでした。秘密にして受験した関大は落ちました。後がない。最後の望みは立命館大学でした。
つづく