ミズタニ行進曲5
父は明るい人でした。人に慕われ、好かれる人でした。義理堅くもあり、曲がった事が嫌いでした。礼節が重要だと考え、律儀でもありました。釣りを教えてくれたし、キャッチボールもしました。夏の夜に昆虫を採りにドライブへ出かけた事もあります。車のラジオから聴こえる中日対大洋戦が夏虫の鳴き声と混ざり合って心地よかった事を覚えています。一年に一度くらいのペースで家族旅行へも行っていたと思います。どこかのホテルで天皇陛下が研究されたナマズの展示がされていた記憶があります。日曜日の朝にモーニングへ出かける事もよくありました。喫茶店の中に充満するタバコの煙と新聞の匂い。コーヒーや食事の匂いも混ざり合って複雑な大人の匂いを生み出していました。私は小さな頃から「大人の世界」に足を踏み入れることが多くありました。
父はギャンブル好きでしたが、ある時期からパチンコだけを打つようになりました。麻雀は誘われれば数年に一度くらいで、競輪、競馬、競艇は辞めました。花札やチンチロリンも辞めました。パチンコは気軽で時間を選ばない事もあるのか、辞められませんでした。母はパチンコもタバコもしない人だったのに、父に釣られるようにハマっていきました。父と母はいつも一緒に行動しました。パチンコを止められない母は仕方なく付いて行かざるを得ず、そうすると、私たち兄弟も一緒に連れて行かれました。当時のパチンコ店の近くには決まってゲームセンターがありました。テーブルゲームと軽食が楽しめる小さな建物が併設されていました。私たち兄弟は少しのお小遣いをもらい、そのゲーセンで時間を過ごすように言われました。1980年代当時は暴走族の全盛期でもあり、ゲーセンにはよく暴走族も集まっていました。
パチンコとゲーセンと暴走族。同じように連れてこられた子どもたちが他にもおり、いつからか「久しぶり」なんて声を掛け合うようになったりもしました。晩御飯の時間にも両親はパチンコを辞めないので、私たちはゲーセンの軽食を食べて過ごす事も多くありました。その殆どの場合、自販機のカップヌードルでした。当時のテーブルゲームは水平なテーブルでしたから、食事や飲み物を置いたままゲームもできました。平安京エイリアンからディグダグ、ギャラガなど。ファミコンでゲーセンのゲームが販売される事を知ると欲しがったものです。手にしたお小遣いなどあっという間に使ってしまうので、パチンコ店の球を拾い自分たちもパチンコをしました。うっかり当たりが出ると親を呼びに行き、「よくやった」などと褒められると嬉しかった。低学年から小学4年生くらいまでの話です。
私はパチンコに行くことが嫌いでした。多くの場合、負けるからです。そして負けると機嫌が悪くなる。中日が負けても機嫌は悪い。パチンコも中日も負ける時など、ただ事ではありません。うかつに今日の成果を聞こうものなら、「うるさい、だまれ」と恫喝されました。自販機の下に転がっている硬貨をガムをつけた棒で取ったり、パチンコ店近くのスーパーに行って駄菓子を買って食べたり、ゲーセンでカップヌードルを食べたり、一向に上達しないゲームをしたり、同じような境遇の子どもたちとケンカしたり、暴走族の集会を見たり、そういう事も全部が「パチンコ」でした。挙げ句の果てに、負ければ機嫌が悪くなる。借金も増える。何もいいことがありませんでした。
父は人から慕われ、義理堅く、明るく、人情も厚い、物腰の柔らかな人でしたが、パチンコが悪癖でした。この悪癖は家庭を困窮させ、兄から考える思考を奪い、母の苦労を生産しました。4年生くらいから兄弟二人で留守番もできるようになるのですが、兄とは折り合いが悪くよくケンカをしました。時には私の頭が切れて二針縫う怪我をしたり。ワガママに振る舞う兄によって母の苦労が増えることが許せなかった私は、兄が嫌いでした。父も兄も、母の苦労を増やすことばかりだと感じていました。「おもちゃが欲しい」と泣きじゃくっては買ってもらう兄の姿が嫌いでした。「よしおも何か買ってやる」と言われても突っぱねました。兄のカンシャクを慰める方法は、物を与える事ではなくパチンコをせずに団欒をする事だったのに。たまに家族でしたドンジャラ(麻雀のようなゲーム)はとても楽しかった。家族でドンジャラをする時が幸せでした。
当時の私には意地があり、自分が欲しいものは自分でなんとか工夫したいと考えていました。毎日もらう50円のお小遣いを貯めて、銀河鉄道999のステーションを買おうと頑張ったことがあります。ジャスコ(今のイオン)のおもちゃ屋に飾られたステーションを見ては目をキラキラさせました。2000円か3000円か、細かな金額を忘れましたがあと100円という直前で、私はコインケースを落として無くしてしまいます。号泣でした。ステーションが手に入らない悲しさ以上に自分が情けなかった。どうしてこんな事になったのか。なぜこのタイミングで落としてしまうのか。それはまるで、パチンコに負けた時の父とどこか重なってしまった。きちんと出来ない情けなさ。母が「よしおは頑張ったし、お母さんが内緒で買ってあげる」と言いました。私はそれを断固、拒否しました。自分で達成しなくては意味がないのです。自分は兄とは違うのだ。父の様にだらしなくはないのだ。母に苦労をかけたくはないのだ。これは自分の不注意だ。でも悔しい。とんでもなく悔しい。今でもよく覚えています。結局、ステーションは諦めてしまいました。
つづく