映画「主戦場」を観た。
2019年7月8日月曜日に映画「主戦場」を観た。旧日本軍による韓国内及び東アジア圏においての従軍慰安婦問題についての検証ドキュメンタリー内容だ。映画は「日本に差別はあるのか」という問いに「ない」と回答した右派(ネトウヨ)らの印象に違和感を覚えた監督が、日本の差別に関心を寄せたことがきっかけで制作されている。差別意識の潜在感への切込みは多くの場合、切り込む側も偏見があるとみなされがちである。映画では、みなされがちである偏見をも丁寧に説明したのち、たどり着いた従軍慰安婦問題を検証してゆく。
少し余談になるが、映画を理解するうえでも非常に重要なことなので日本の戦争を時系列で簡単にまとめる。
1894年8月、日清戦争。朝鮮半島を舞台に清国(現・中国)との戦争。1895年に下関条約を締結(台湾などを割譲。台湾は50年間、日本の植民地支配地)。
1904年2月、日露戦争。満州・朝鮮の支配をめぐる戦争。ロシア革命の影響と日本の財政きっぱくとが影響し終戦。翌年にポーツマス条約を締結。満州鉄道網を獲得。日本は半官半民の南満州鉄道株式会社設立し、中国内陸での影響力増大と干渉を強める。
1931年9月18日に満州事変を起こし、翌年に満州国を樹立させる。
1937年7月7日の盧溝橋事件がきっかけで日中戦争が始まる。
1941年12月8日に真珠湾攻撃を口火に日米開戦、太平洋戦争が始まる。
1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾(無条件降伏)し、敗戦し終結。
私の世代(1974年生まれ)が学んだ日本の歴史では日中戦争も、日独伊三国同盟によって繰り広げた第二次世界大戦も、太平洋戦争も、その前の日清・日露、第一次世界大戦も、全ては人類が抱えた帝国主義と植民地支配思想による戦争の歴史と習う。帝国主義と植民地支配の思想についてはどの国でもファンタジックに語る人々が存在する。彼らは多くの場合、「帝国主義も植民地支配も大義名分があった」というファンタジーを持つ。しかし歴史はファンタジーではない。現象として起きた出来事へ解釈と動機を理解することである。戦争に対する大義名分は戦争動機として伝承されている。歴史の資料からそれらの背景は検証が不可欠である。それらの検証は、あれ程大きな戦争へ発展した歴史をファンタジックに解釈しないようにこそするためである。あの戦禍を再び呼び戻すためではない。
日本は日清戦争、日露戦争を足掛かりにして大陸への侵略が始まるのが分かる。日中戦争が開戦し、破竹の勢いで東アジア地域を侵略してゆく。日本の右派はこの時代の日本に強いファンタジーを抱いている。中国の一部も朝鮮半島も、日本の植民地であった歴史にヒロイズムを抱いている。だからこそ右派の人々は、中国や朝鮮(韓国・北朝鮮)、アジア諸国に対する人種差別的な思想が根深い。アメリカやロシアはその領土を植民地化できていないためか、アジア諸国に対するような差別意識はさほど強くない。これは敗戦国である日本が「敗戦した相手はアメリカであって、中国や朝鮮やアジア諸国ではない」と考えていることによると思われる。実際に、太平洋戦争については歴史の授業で細かくするわけだが、日清戦争から日中戦争に至るまではその背景もサラッと習うだけの印象がある。私は小中の成績が悪く勤勉ではなかったのであまりなことは言えないが、皆さんも思い出していただきたい。先に示した日本の戦争にまつわる歴史的な時系列ときっかけを覚えて見えたろうか。
実際には、真珠湾攻撃よりも盧溝橋事件の方が重要ではないか。それまでの戦争で、満鉄を作り満州での影響力を増大させたことや、朝鮮半島の港を開港させたりした事はもっと丁寧に学び理解すべきではないのか。8月15日は、「アメリカに敗戦した」だけではないのだ。日本は植民地支配をしていた地域の全てで敗戦したことを歴史でもっと学ばなくてはならない。「終戦」という言葉は戦争終結を意味する言葉だが、「敗戦」という意味を遠ざけてはいないか。傷付く人もいるだろうか。しかし、繰り返し言わせていただきたい。日本は「敗戦」したのだ。当時、対峙していたすべての国に。1940年の日本の人口は7250万人で、そのうちの330万人超もの日本人の犠牲者を出して、敗戦したのだ。ケガをした人間はもちろんもっといるし、家屋を失った人間もたくさんいる。当時の政府は、天皇を筆頭に掲げて大東亜共栄圏という思想と、八紘一宇という理念を掲げて戦争をし、文句ないほどに敗戦したのだ。「無条件降伏」という言葉がそれを示しているではないか。日本の敗戦を持って、第二次世界大戦は終結を迎えた。そのことが「終戦」の言葉を際立たせているのかもしれない。「終戦」と「敗戦」の違い。「アメリカには敗けた」というだけの解釈が色濃い敗戦。日本は確かに、敗戦したのである。アメリカと太平洋戦争を開戦して、その結果、アジア各国でアメリカが各国の代理戦争を展開した結果としても、対峙していた全ての国に、敗戦したのだ。
日本は植民地支配していた地域に対する優位意識をどこかで引き継いでしまっていないだろうか。これは、私個人の主観である。そして私は右派でも左派でもない。しかし私の中に、中国、韓国・北朝鮮を始め、アジア諸国へ向ける眼差しに「日本は特別」というものが少なからずあることを確認できる。この優位意識は、戦後に経済発展を遂げて国際的に成長した日本の発展によるものであることと理解してきた。加えて、「日本人は」という言葉で始まる意識世界。私は物心ついた時から「勤勉で、倫理的で、実直で、まじめである」という枕詞に「日本人は」がよく入っていた記憶がある。私は26歳に大学入学するまで「日本人は」という言葉に違和感を覚えることはなかった。私は無自覚に、無意識に、これまでの日本の教育やメディアや世間の環境下で「日本人は」という意識世界を内面化してきた。この「日本人は」という文脈の背景に、過去の植民地支配をした地域への差別意識の刷り込みはないと、言い切れるだろうか。そしてそれを、どこで気付けるだろうか。「日本人は」という枕詞は経済発展の成果に対する誇りであって、戦争下での支配意識であるはずがない。そんなことはないはずだ。と、言えるだけの歴史への理解が私にあったろうか。皆さんはどう思われるだろうか。
日本の戦争の歴史、とりわけ日清・日露からの日中・太平洋戦争という流れをきちんと知る事は重要である。もう少し言えば、明治維新あたりからである。天皇を神に据えて支配体制を生み出した地点から日本はすっかりと変容してしまう。そしてその地点と比べて、いまの日本はどれほどの距離があるだろうか。私は先の大戦などを経験したにもかかわらず、「その地点」に憧れを抱き続ける政治家がいる事に愕然とし落胆する。それが内閣を組閣している中にあるというのであれば尚更である。政治的にもアメリカへの嫌悪感はすっかり薄れているのに対し、中国や韓国、東南アジア諸国への眼差しは厳しいように感じてしまう。平易な言い方をすれば、見下していまいか。韓国との貿易政策をめぐる対応も、アメリカにならできまい。「日本人は優れている」という優民意識は、日本の伝統的な技術や文化に裏打ちされた、芸能、技術、技能、に対してこそ言えることではあるかもしれないが、他民族との相対化に関して何ら、意味も理由も根拠もないことであることは明白だ。しかし、植民地支配をした経験がある土地に対しては、厳しい眼差しが民間伝承的にも政治的にも引き継がれているように思われる。これは琉球民族、アイヌ民族への眼差しにもつながる文脈である。現在に至る、沖縄基地問題は、どう考えても同じ日本の地域で、等しい眼差しで、解決に向けて取り組まれているようには感じない。県民投票で意思を表明しても国は黙殺している。歩み寄りもしない。日本に根強く、そして無自覚的に作用している歴史認識の問題点は「忘れてしまう」ということに尽きる。
私はこれまでの歴史をまず、流れを含めてざっとでも再び理解しておく必要があると言いたい。。近隣諸国と歴史の認識をすべて同一にできるとも考えていないが、盧溝橋事件もうろ覚えの歴史認識で、日本が挑んだ大陸侵略などを理解できるはずもない。中国も韓国も祖国が侵略された歴史を忘れないこととして学んでいるはずなのだ。この部分だけでも、それらの国と歴史認識を別にしてしまうのではないか。盧溝橋事件で中国が先に手を出そうが、日本が先に手を出そうが、戦争に大義などない。戦争にまつわる大義はファンタジーである。歴史で確認できるのは現象だ。だからこそ、アイデンティティやナショナリズムや優位意識などを重ねて考えてはならないし、教えてはならない。私が述べている歴史的な事象はすべて辞書で調べても出てくる内容ばかりだ。感情論でも、政治的発言でもない。すなわち、義務教育で学んでいる事柄である。社会科で学ぶ近隣諸国との歴史は、テストのためだけに暗記されて消去されているようでならない。つまりは「忘れてしまう」のだ。個々人の学習能力に関わらず、折に触れ、近隣諸国との歴史(とりわけ、中国、韓国、北朝鮮)についてはその認識を丁寧に確認するような機会が必要ではないのか。現象としての歴史を認識することは、日本人としてのアイデンティティにも自尊心にも抵触しないはずである。むしろ、きちんとした理解と認識の上にこそ「日本人」という自意識は育まれるべきである。
やっと「主戦場」についての感想に至る。これまで長々と歴史認識について述べたのは、作中に登場する右派のファンタジーは歴史認識の歪みによると考えるからだ。右派の認識と意識は、日本人の誇りも、美意識も、美徳も、結局はそのすべてがファンタジーだ。歴史認識の歪みから派生した思想の構造が、その右派の思考の全般をファンタジックにさせる。映画は右派の思考の違和感をドキュメントしているのだが、そこに覚える違和感を感情的に処理しないためにも、私たち自身の歴史認識も問われなくてはならない。作品についての詳細は観ていただくほかない。この作品の意義は、右派のファンタジーを証明している点と、政治的な判断にもファンタジーが影響をしていないかと問いを立てている点である。これらの点をよりきちんと理解し、整理するためにも、私たちの歴史認識は重要である。その上で、ファンタジーを支持するのかしないのかを考えたらいい。だからこそまさに、映画は議論の「主戦場」である。
ちなみに、この文章を書いている際に友人らへ「盧溝橋事件を知っているか」という問いを立てた。
18人中、知らない4人、知っているが内容は知らない7人、知っているし理解もしている7人
この数字は多いのか、少ないのか。