「えらい」を「すごい」に変えてみよう。

2013年5月7日ミズタニ行進曲

8月末でイルピアットは大きく営業形態が変わります。それに伴い、家計などについて考えを馳せてみました。このことにまだ回答は出ていません。考えるところをいくつか書いてみようと思います。

今現在、私の家では働いているのは私だけです。嫁さんには仕事を辞めてもらって、娘の育児をお願いしています。これが早ければ来月あたりから変化します。嫁さんが復職し、働き始めます。私が8月末で大きな決断に至れたのも、彼女の賛同があってこそです。

9月になると、所得割合は変化します。嫁さんの所得は私をあっという間に抜き去ります。一般的には逆転現象とも言えるかもしれません。男性特有(?)の自尊心や責任感を中心に考えると、この逆転現象は耐え難さを増大させるような印象ですが、私にはそれがありません。嫁さんの所得が多いことは良い事です。

しかし、所得を獲得してくる役割が一番「えらい」と捉えられがちなので、家庭内の決定権(実権でも主導権でもなんでもいいです)は大黒柱である所得獲得者にあるように思います。このことは、夫婦の性格や個性や人格によって多少の役割分担や得手不得手があるので、家庭内での様式は様々だと思います。ここでのポイントとして知って欲しいのは、所得獲得者には優位性があるのじゃないか、という点です。

所得獲得者による優位性は、「えらい」として表現されることが多くあります。「お父さんは稼いでくるから偉いんだよ」というのは、その典型です。ここに見る「偉い」には権威があると表明しているように思います。同時に、もうひとつの文脈にも気づきます。頑張って働いていることを労う「ほめ言葉」の文脈です。「偉い」には、ほめ言葉の要素もあります。「宿題をきちんとして偉いね」というように。この二つの文脈が「偉い」にはあるのですが、どちらの文脈で表現しているのか意外と区別が難しいように思います。

所得を獲得してくる存在の「えらい」は、単なる「ほめ言葉」であって欲しいと思います。このことは働く内容に影響するだけでなく、所得の多さが立場を決めることを遠ざけるように思うのです。所得が多いに越したことはありませんが、だからと言ってそれは「権威がある」ということではなくて、「ほめ言葉」に過ぎない方が厳しくないなと思うのです。これは所得を獲得しなくてはならない圧力を和らげるとともに、労働の背景は自分の欲求であることに帰することで責任を自分で背負えるかなと思うのです。働く動機は「家族のため」でもいいのですが、それは飽くまでも動機であって「家族のせい」とは違うはずです。

家庭内における所得獲得者が優位性を持つ性質が強いと、なんとなくですが、家庭外の関係にもそうした価値を置くのではないでしょうか。それは「お金持ちは偉い」というような、価値観を作るきっかけになるのかなと思うのです。この時に、「お金持ちは偉い」から「お金持ちは凄い」くらいが丁度良い気がします。「すごい」というのはニュアンスであり、具体的ではありません。「すごい」には権威もあまり感じません。

いまでもそうですが、これから先の社会はどんどんと所得格差が拡大してゆきます。その際に、「所得の多い人は権威である」というのはいかがなものかと思います。仕事にはバラエティーがあり、その内容に応じて所得は違います。生活の水準はそれこそ様々であり、暮らしぶりにも多様性があります。人間の立場は所得で決まるのではなくて、その人との人間性の相性であって欲しいものです。これは夫婦間でも同じです。

「お父ちゃんは稼いでくるから凄いんだよ」というのが、私の家では「お母ちゃんは稼いでくるから凄いんだよ」にもう間もなく変わります。いや、だからとこんな文章を書いたわけではありませんよ。言い訳がましい?いやいや。「お母ちゃんは稼がなくても充分、凄いんだよ」と私は毎日、思っていますよ。