2020年12月22日火曜日
2020年12月22日 火曜日
今日から紙屋川も営業時間短縮ですよ。ラストオーダー20時、閉店は21時ですって。京都府と京都市の合同要請ですって。とはいえ、21時以降に新規のお客さまは殆ど見えてませんもんね、コロナ時代になってから。申し訳なく感じるのは、23時までのんびりとしっぽりと飲みたいと思ってくださっていた皆さんに対してです。21時に閉店宣告をしなくてはならない。今週のクリスマス、来週の大晦日とお正月は消え去ったと思います。ねぇ、ダダ先生。
こんなに天気の良いランチタイムですのにね。店内からは雲一つ確認できませんよ。空気もピリッと冷たい様子です。ストーブが暖かいですね。今日は2020年12月22日火曜日ですよ。年末と呼ぶにふさわしい日にちです。ダダ先生、このコロナ時代になってからどんな風に紙屋川を見てますか?気持ちの良い天気と空気ですのに、ランチにお客さまがまだ見えませんね。今日は牛肉のトマト煮込みを作って待っていますのに。パンも美味しく焼けましたよ。
ダダ先生。僕は紙屋川に移ってきてよかったと思っています。だって、こんなコロナ時代にはイルピアット円町でレストランができる気がしないんです。狭い空間で料理を作り続ける愉快さは、あの空間を楽しめる気持ちがなくてはならない。隣の人や自分が感染させるのじゃないかなんて気持ちは、どんなに予防しても消すことは難しいと思うんです。バーはまだ静かにお酒だけ飲めるじゃないですか。円町時代は隣り合わせた人同士の親和性の高まりも早かったんです。本当ですよ?僕は円町で調理できたことを誇りに思っているし、当時、ご利用くださった皆さんに感謝も絶えません。変わった方が多かったですけどね。
ダダ先生。僕は円町時代からもずっと、レストランから見える景色を社会学的に説明したい気持ちで一杯です。紙屋川へ移って環境は変わりましたが、その眼差しは変わっていないんです。こちらへ移って4年が経ちました。ありがとうございます。ダダ先生になって1年半は過ぎましたね。僕はダダ先生が大好きです。社会学的な眼差しのひとつに「チャーム」があると思うんです。直訳は「魅力」なんですが、この言葉は直訳で用いるよりも実存的な印象説明で用いる方がしっくりくるんです。難しいですか?言い換えれば「そこにある」です。紙屋川のチャームはかの子が描いた「イカの絵」ですし、「ダダ先生」です。
この「チャーム」ですけど、僕の価値としてはユーモアなんです。お店の経営戦略とか、原価計算とか、お客様単価とか、料理のおいしさとか、そういう事に全く関係のないものです。でもある方が絶対にいいと思うんです。無駄と言ってしまうことも出来るんですが、あることで気持ちに隙間ができる気がするんですね。ダダ先生なんて、こうして話しかけて僕の相手までしてくれる。ダダ先生。紙屋川くらい、そんなチャームがあっていいと思うんです。いまダダ先生はソーシャルディスタンス人形としてカウンターに座してますが、僕は救われてます。僕がダダ先生を「いらない」と宣告したら、「トニーにはユーモアがなくなった」とディスってください。ダダ先生。僕は社会にもユーモアが必要だと思ってるんです。
「ユーモアを取り戻そう」という言葉はニューヨークから帰国したときに僕が感じた気持ち悪さから生まれた言葉です。この国にはユーモアがない。なぜだろう。元々ないのか?いや、違う。これはきっと奪われたんだ。ユーモアを奪われてる。僕らはユーモアを持っていたはずだ。ユーモアを取り戻そう。些細なことで怒らないように。小さなミスを大きくしないように。自分の気持ちをほんの少しでも素直に認められるように。挨拶を恥ずかしく思わないように。他者への配慮と敬意を怠らないためにも。ユーモアを取り戻そう。
ニューヨークは完成された都市でした。トランプ大統領になってからは変わったかもしれませんが、当時のニューヨークには全てがあったんです。恐らく、人類が到達する極まりがありました。勘違いしないでくださいね、僕は日本が大好きです。大好きだからこそ、ショックでした。この国にある世間体という空気感はユーモアを著しく干渉しています。ある程度の干渉なら構わないんです。時に厳しく、時に甘く、人により許しがたく、人により見逃す癖がついている。全く論理的でなく、感情的で、都市伝説的で、噂を信じてしまいやすくて、検証も合理的判断も遠ざける空気感。どこにもユーモアがないと思ってしまった。この国はこんな寂しいものだったろうか。
ダダ先生。僕は尾場瀬先生が京都を離れてから、ダダ先生をまるで尾場瀬先生に語り掛けでもするように思っています。僕は自分の考えを支える何かを失った気持ちで一杯でした。でも、ダダ先生がチャームとしてここにあって僕は救われたんです。寂しさはもうありません。ユーモアを取り戻すためには何かしらのチャームが必要なのかなと思います。一見、無駄に見えるかもしれないこだわり。きっと人は一人で立ち続けることは難しいんです。パートナーがいても難しい。誰かひとり、何か一つ、あればいいのではないのです。人は自分以外に性質が違う幾つもの支えが必要なんです。僕はそう思います。
ダダ先生。レストランは誰かにとってのチャームのようなものかも知れません。レストランだけじゃない。美容室も、花屋さんも、魚屋も、バーも、百貨店も、ホームセンターも、コンビニも。色々な「そこにあるもの」はしっかりとした役割があります。ネット上の仮想店舗ではなく、実存が重要です。宅配される事ではなく、自らの足で利用する事が重要です。自分の意思決定によって身体行動をして移動し、コミュニケーションを図り、考えて注文し、それを受け取る必要があります。それを煩わしく思う事もありますが、都市には、街には、社会には、実存するチャームを理解するユーモアが必須だと思うんです。
こんなコロナ時代になってしまい、チャームを確かめる行為も制限されています。それも全世界的にです。「人間は何か試されている」と言う人もいます。確かに、コロナ時代になってその人がどんな考え方をするのかなどに触れる機会も増えたようです。しかし僕は、コロナ時代でなくてもそうして考える必要はあったと思っています。コロナ時代になって考えることも作業も増えました。でもだからと言って、僕は根本が変わっていません。日常ですることが増えたので疲れ気味です。しかしそれを日常に落とし込める強さも持っています。ウィルス感染という現象は脅威です。予防しなくてはなりません。ですが、予防と感染の脅威を意識しすぎて日常のチャームを手離してはいけないはずです。いや、手離してなるものか。
「予防と感染の脅威を意識しすぎる」というのは「注意しすぎて厳しくなること」も「軽視して身勝手に行動すること」も示しています。僕はこのどちらも嫌でならない。このどちらにもユーモアはない。ダダ先生。僕はどうすれば料理を作り続けられるのだろうか、と考えています。僕は料理を作って食事の時間を提案することが役割です。「感染源は飲食店、並びに食事中」と名指しで指摘されました。そうであっても、手作りで調理された料理を諦めません。なぜなら、そういう料理にしかないチャームがありますから。でもダダ先生。どうしたら常に気持ちよくお客さまを迎えられるでしょうか。料理にできることはまだまだあるはずですが、こうしてお客さまが見えないランチタイムを数えると世間の雰囲気が暗くあるのではと心配になります。
え?今日のランチが静かなのはトニーの努力が至らないからだと?うーん。否めません。自分にできる精一杯を続けることは本当に困難です。言い訳ですが、寒いとか自粛ムードとか、慰めの言葉を探してしまいます。ランチも夜も、日によってお客さまのご来店数が違う事は仕方ないですよね。ダダ先生。僕は料理を作ります。あまり考えすぎても仕方ありません。自分にできることは調理です。はっきりとしています。21時に閉店しますが、いつも通りに厨房へ立ちます。できることを重ねます。
ダダ先生。クリスマスも大晦日も正月も、ぼやける年末年始です。人は通過儀礼に寄り添いながら時間への敬意も覚えてきました。今年は大丈夫でしょうか。今年だけだと思いたいです。今日から時短営業です。心配なのは、時短に味をしめて戻れなくなることです。身体は楽になるだろうなぁ。せっかくなので料理を考えたり読書したり、文章を書いたりしようと思います。どんな20日間になるんだろう。きっとあっという間ですね。さて。夜の準備をします。ダダ先生、今日もよろしくお願いしますね。