丸山真男『日本の思想』から読み解くコロナ禍 (1)
飲食店主の叫び 丸山真男『日本の思想』から読み解くコロナ禍
ミズタニ・トニー・ヨシオ
ミズタニラジオでもお話したのですが、最近、文章を書けないスランプになっています。それもこれも、「読みやすくて受けのいい文章を書こう」なんて打算があるからだろうと考えています。いつからだろう。文章をすらすら思いのままに書いていた時期もあったのです。振り返ると、その頃は書く内容を配慮せずに好きなように書いていました。悪口も、偏見も、こだわりも、感情論も、最後にまとまりさえすればいいと書いていました。年齢を重ね、恥じらいが出てすっかり格好つけるようになってしまいました。
私の眼差しは2000年26歳の時に大学へ入学してから養われたものです。それまでの私は無教養で、感情的で、場当たり的で、何かに不満を抱えていて、常に文句があり、感覚的で、配慮もなく、社会が何であるのかなんて考えもしない人間でした。レストランで働きながら自分の技術は直ぐに陳腐化するだろうと不貞腐れ、私は無知だから良い様に使われて捨てられるだろうという強迫観念を持ち、どうせ貧乏からは抜け出せないという周囲への嫉妬を抱え、そんな卑屈な感情たちで塗り固められていました。私は大学に進学できていなければこのコロナ禍を乗り越えられはしなかったと思います。レストランもできてないでしょうし、料理も続いていなかったでしょう。だらしなく、捨てられた犬の様な眼をして、何に対しても噛みついてばかりだったでしょう。それは大げさでなく、本当に。実感として。
この「ミズタニ行進曲」を高校生や大学生諸君が読むとは思いませんが、大学の良さを話させてください。大学は知の集積地です。君たちの疑問や苛立ち、問題や不条理や不満などを理解するきっかけがてんこ盛りです。大学に解決策や解答があるのではないのですが、きちんと問題が整理できて理解に至れば、ある答えには辿り着ける場所です。「論理性」を身に付けることができ、言葉を使って論理的な思考や現象の分析ができるようになります。まさに「科学」を実感できるようになります。科学の意味と価値に触れると、この世界がどのように構成されているのかという理解に触れることができます。科学は食べられませんが、みんなで共有できて、考えるきっかけと理解を進められます。
大学へ進学し社会学を学べたことは(何度も伝えていますが)私の人生を変えました。とても大きい影響力です。コロナ禍の渦中でも「変わらない日常」を送れているのは大学での学習のおかげだと思っています。私は感情的にならなくて済んでいます。レストランをしています(口語体ですみません)が、コロナ禍での時短要請や営業制限があってもこうして乗り越えられる背景には、店舗の規模が補償内容と見合っているからだと理解しています。協力金がまさに絶妙なバランスです。多くの同業者が補償内容への不満を抱く中、個人的に補償内容への不満を持たずに済んでいる事についてはこれまでもお話してきました。
その上で、同業者から聞こえる「やる気が削がれる」「働く気力が萎える」「きちんと働きたい」という悲痛な声をどれも切実なものとして聴いています。私がそうでなくても、そうした気持ちは理解できます。「同じ気持ち同士でなければ理解はできない」かのような空気がある事を知っていますが、私はそういう空気が苦手ですし嫌いです。これは「要請に応じている・応じていない」という事にも確認できる空気です。「こっち側」「そっち側」という区別をつけたがる。また、付けられる(後に述べますが、これを「タコツボ化」と呼びます)。この些細な気持ちと感覚が分断を生み出します。私はどちらにも加担したくないのでコウモリ的な対応をしています。
新型コロナウィルスはコウモリ由来と言われています。これは皮肉です。私は感染拡大予防対策による要請を素直に応じつつも、政治的な判断としては失敗だったと考えています。それはこれまでにもいくつか述べてきました。医療のひっ迫を生み出したこと、ワクチンの調達に後れを取ったこと、政府関係者などの政策実行者にモラルを欠く行為が認められて政策をダメにしたことなどです。政治的な失敗と、私たちの行動と判断は関連していますが、選び取った行動に対しては自己判断だと思っています。この国は自由意思が認められています。その点において「選べる事」により責任が政府なのか個人なのかと議論が起きることもよく分かります。しかしこの議論は結局、「私人制限」という言葉を引き出させてしまいます。私はこの議論を「利用されたもの」と考えています。
大阪府の吉村知事に見るように「(要請に応じるか否かを)選べる結果、感染予防対策が充分な効果を出さない」と論理をすり替えて単純な二項対立へ導こうとする人間が出てきました。よく考えてみると、「選べる事」は尊いのです。その事を触る必要はないのです。触るなら「選べる内容」なのです。この部分が「政治の失敗」なのですが、その反省は全くない。可能だったかどうか分かりませんが、「すっかりと休業してもらい100%の売り上げ補償をする」と提示しなかった。それもせずに、なぜ「効果が出ない」ことが「要請に応じない業者と利用する人間の責任」であるかのようにだけ突き上げられねばならないのか。これは本当に質(たち)が悪く、さらに世論を取り込んで「言うこと聞かない店舗は悪い」とした上で、「利用する人も悪い」という単純な構図を描きます。
要請に応じるかどうかの自由は保障されています。選べない内容を提示されたら選びません。シンプルです。それを「選ばないのはおかしい」とレッテル張りをしました。加えて、「感染予防対策効果が及ばないのは応じない店舗と利用者だ」とし「こういう時は私人制限をすべき」と権力行使を唱えます。いやいや。待って、待って。おかしいじゃないか。順番も内容もおかしいのです。私たち飲食業者にだけなぜ過料を科せられる「モラル」を突き付けるのか。「倫理」を問うならそれは「判断する」ということなのだから、「応じない倫理」も成立するはずです。「要請」が「倫理」であるなら要請内容がまずは多くの支持を持っていなくてはならないのです。要請内容を飲めない人たちがわがままなのではありません。要請内容そのものが「私人制限」という言葉と天秤に掛けられた。明らかに「利用された」と言っていい。その欠落を私は政治の失敗と指摘しました。
その上で、私は要請に応じています。私には補償内容が見合ったからです。それ以外にも妻が医療従事者である点や新型コロナウィルスにまつわる科学的見地を考えての判断です。私は政府・行政が訴える感染予防対策そのものが間違っていると考えていません。距離を取ることや消毒すること、換気すること、アクリル板などで仕切ること、マスクをすること、会話を慎むことなど、これらは変異株も誕生している状況下では有効だと考えます。こうした感染予防対策を「軽視すること」と先の「要請内容の妥当性を問うこと」は全く別のことです。ですが、多く場合に都合よく一緒くたにして考えられてしまいます。この場合の「都合よく」は政府にも飲食業者にも当てはまります。
そしてここに「東京五輪開催」というファクターが加わります。今度は「感染予防対策は東京五輪開催のため」という論調を生みます。この文脈は多くを端折っているために正確に伝わらなくなりました。正確には、「感染予防対策は新型コロナウィルスの感染拡大を抑えるためにされていますが、効果が認められて感染者が減少すれば東京五輪をしっかり開催する」ということです。おかしいですか?感染者が抑えられて感染が収束すれば五輪開催は支持されるでしょうから、「開催するために感染予防対策の徹底」という文脈はおかしくありません。ですがなぜか「感染予防対策は五輪開催のため(だけ)」という闇文脈を重ねました。暗号と言ってもいい。これは書かれたり、語られたりする際の前後文章でその謎解きができるようになっています。はっきりとは分からないけれどニュアンスで受け取り、人と話して確認し合う中で謎解きができる仕組みです。結果として「五輪開催のために感染予防対策がある」かのようになりました。
この事が「五輪開催反対」の人たちのロジックとなります。五輪開催反対の人々はこの「ためにだけ」という限定的な切り取りを強めることで、感染予防対策疲れと不満を持つ人々の気持ちを取り込んでゆきます。「東京五輪のためになぜこんな辛い目に合うのか」という感情論は、昨年から長引いた生活への制限も重なり支持を集めます。東京五輪開催は感染予防効果の「結果」としてあるはずだったのに、いつの間にか「目的」に格上げされて「そのためだけ」とまで分かりやすく限定されて、引き下がらない地点まで押し上がりました。では「東京五輪開催のための感染予防対策ではないのか」と言えば、回答は「東京五輪の開催のためでもある」ということでしょうか。
この事はきちんと捉える必要があります。感染予防対策は「東京五輪のためだけ」ではありません。医療のひっ迫や重症者を増やさないなど、そもそもの目的がその中心です。東京五輪が昨年に延期となり今年にやってきました。「開催をどうするのか」という問いを強く立て過ぎたこともあり、回答に熱がこもったことは間違いありません。結果としてIOCも「絶対開催」と状況を考慮せずに発言を重ねて「五輪開催のためだけ」という文脈を強化させました。政府もそれに追従し、「開催しかない」と目下の状況を無視した発言を繰り返します。ここに東京五輪開催反対の人たちは燃料を投下された炎のごとく燃え盛りました。
もちろん、東京五輪開催にまつわる話には利権をめぐる不誠実さが見え隠れもしています。例えば、パソナの会長である竹中平蔵氏は五輪反対論に対して「世界に対してやるっていうふうに言った限りはやるべき責任がある」と発言(6月6日読売テレビ「そこまで言って委員会NP」放送内)しました。しかし、東京五輪に関する人材手配の全てをパソナが請け負っている事実があるので、「利権のための開催擁護」と受け止められたのは至極当然です。開催根拠が「世界に対して責任がある」としただけの稚拙な理由だったことも、開催反対の人たちから怒りを買いました。
内閣官房参与(当時)の高橋洋一氏が5月9日に「(国内の感染状況を)この程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」、5月22日に「日本の緊急事態宣言といっても、欧米から見れば『屁みたいな』ものではないのかな」とツイート。東京五輪開催をごり押しして、国民の苦痛に無関心であるばかりでなくバカにした表現が「政府は東京五輪開催のことしか頭にない」と位置付けられバッシングされます。高橋氏は5月24日に「不適切表現を改めます。各位にお詫びします」と訂正し、謝罪したものの同日に参与を辞任しました。辞任理由の詳細は明らかにされませんでした。
この他にも数多く、政府側からの発言(森会長の発言など)により「東京五輪強硬開催」というレッテルが完成します。こうした発言者の資質は初めから適切でなかったにせよ、前のめりの政府の姿勢は「取り繕い、利権を守る為」というメッセージになりました。新型コロナウィルスの感染予防対策もこのメッセージを取り込みました。政府が東京五輪開催目安になる感染状況の数値目標などを一切提示しなかったことも悪印象でした。「何か都合の悪いことがあるからすっかりと明らかにしないのだ」という疑心暗鬼が国民の間にも生まれました。ここで「東京五輪強硬開催」=「国民を蔑ろにしている」と変換されます。「感染予防対策は東京五輪開催のため」という強い文脈はニュースにも乗り、政府のだらしなさとして発信されました。
お分かりと思いますが、「新型コロナウィルスの感染拡大を防ぎ抑制し収束させる」ために昨年2月から日本は様々な手立てを打ってきました。この過程でウィルスの特性理解や海外のワクチン開発なども経て、現在に至ります。感染予防対策の制限要請と補償内容は、特定業種を名指しするならその規模にあった丁寧な補償が検討されて実行されるべきでした。その政治的失敗を隠すために憲法改憲への議題を掲げるふりをして逃げようとする姿勢と魂胆は、二重にも三重にも失敗政治と言われるべきと考えます。補償内容についてわたし個人は充分ですが、そうでない人たちがいる現状はフェアと言えないように思います。同時進行で、東京五輪開催を巡る発言が重なり感染予防対策への信用と運用を疑心暗鬼化させました。これまできちんとしてきた人たちの感情にも揺らぎを与えたことも明らかです。
そして6月20日にやっと緊急事態宣言は解除される方向です。しかし飲食業には引き続き、厳しい制限が残るとされています。酒類提供自粛要請が残るかも知れません。この事は非常に大きな制限です。私のお店でも飲酒を心待ちにしてくださっている皆さんがいます。今回の宣言解除でも酒類提供自粛要請が外れないと、要請に応じられなくなる店舗は増えるものと思います。その事を政府がどこまで重大に考えているのか分かりませんが、我々の誠実さを消耗品の様に扱えば代償はどんでもない大きさになると思います。
日常生活は些細なルールと我々の良心と倫理観によって保たれている面もあります。モラルや常識、良識やマナーがそうです。法律とは別の規律があります。これまできちんとしてきた人ほど、きちんとできなくなると歯止めがなくなり自暴自棄になるかも知れません。こうした「報われない経験」は年齢を問わず、自尊心を踏みつけられ気持ちを腐らせます。同時に、要請を我慢して応じてきた店舗も、応じない店舗が増えれば応じてきた意味と価値を失ってしまいます。ただでさえ、働く動機付けを削られている最中です。感情論で判断せざるを得ないほどに迫られている人もいると思います。
そしてさらに、このタイミングで6月15日火曜日に野党は内閣不信任案を提出しました。「3か月間の国会延期が拒否された」ことが提出理由です。この不信任案を私は全く支持しません。「国会は延期をする必要がある!」と私たちに思わせるような国会運営が日頃からできてもいないくせに、延期して何があるというのか。予め用意した質疑応答を国会という舞台上で交わすだけの緊張感のない状況で、「総理にはコロナウィルスの感染に対する緊張感がまるでない」と野党も言う。しかし野党にも緊張感は皆無なのです。バカバカしい。与野党ともに「やってます感」を出す事だけに終始している現状を本当に残念に思います。
以上を踏まえて、よくよく気付くことがあります。こうした「コロナ禍」で共通する事。多くの場合、「原物」の確認をと取らずイメージだけで進んできている点です。感染予防対策協力要請の内容と効果、その要請に応じる・応じないという背景、東京五輪開催のための感染予防対策であるというメッセージ、身勝手に振舞う人を生み出しやすい制限を念頭にした私人制限の発言背景、これらは多くがイメージの結果に立ち上がって作られた文脈です。イメージでない事象は、新型コロナウィルスの存在、医療現場のひっ迫、感染者の重症化問題、感染予防対策に効果がある方法などです。これらは現実的に起きている現象です。
しかし現実的な現象からイメージされる様々が、それぞれにイメージを生み出させてしまいました。SNSによる拡散も大いに関与しました。生み出されて流布されているイメージが本当のことかどうかを確認する暇も、手間も、時間も、ソースも近くにはありません。結果として自分にとって都合がよいイメージを取り込むことになってゆきます。「誰が発言しているのか」という事に寄り掛かり、自分でそのソースを調べたり確認したりはほとんどされません。「自分が信用するこの人がこう言っているのだから」という「自分が信用しているという理解こそが自己責任」というおかしな論理を設定して「その人」に丸投げする。堀江貴文氏や西野亮廣氏はこの設定を請け負うモデルと言えます。
このコロナ禍において、こうしたイメージから生み出されたロジックが本物の顔をしてそれぞれに「正義」みたいなものを持っているフリをします。もちろん「フリ」ですし、「みたいなもの」なので存在はしません。であるのに、自分の意思のようでもあり、ある社会(グループやまとまり)では常識であるようにも思ってしまうのはなぜでしょうか。この先は丸山真男氏の『日本の思想』(岩波新書1961年第一刷発行)にある「思想のあり方について」という章を引用してお話しできればと思います。イントロダクションとしては、イメージから生み出されてゆく「タコツボ型文化」を説明しつつ、いまのコロナ禍で起きている現象を明らかにできればと思います。なるべく簡単に書きますから、どうぞよろしくお願いします。
2021年6月16日水曜日