ウクライナへの眼差しについて
「反戦 を言ってる自分」という自分の 立ち位置を表示する為に使う 「反戦」 は 「反戦」 じゃないと わたくしは考えています。
言葉ばかりで上滑りする悪い癖 がこの国には染み付いていて、 例えば 「反戦」 って投稿が広が っても 「反戦について」の理解 は広がることはないと見ています。
理解が抜けてるような 「反戦」 表示は、 単なる応援のようなも ので場当たり的な協調でしかな いと厳しく見ています。
だから、「反戦」 を用いること を一度立ち止まって考えてみる こと自体が大切で、その言葉に ついての丁寧さときちんと向き 合う時にこそ意味があるかなと思います。
「では、どんな世界がいい?」って話をわたくしはしたいです。
そして、その先の世界に興味と理想を思うならば、 社会の仕組みを理解しなくてはなりませ ん。
つまりは、教養と仕組みへの好奇心を持たなくてはならないと 思うのです。「反戦」を使う時にこそ突きつけられる難しさがあると思います。
社会の全てを理解せよ、ということではなくて、「どんな社会」 「どんな暮らし」 「どんな「世界」という話ができなければ、反戦は生きてこないかなと思うのです。
「訴えることが意味ない」ので はなくて、「訴えるなら実効性 を持たせるための話もしよう」がわたくしの厳しい立場です。
だからこそ、関心を持つのは戦禍ではなく、ウクライナの本質にこそでありたいです。
その本質に関心を寄せれば、自然、戦禍など及ぼしてはならないと気付けると思うのです。
それこそが「どんな世界がいい?」という反戦へのアプローチだとわたくしは考え、実践したいと思います。