ミズタニ行進曲2
再就職した設計事務所は私を含めて3人。所長はいつも営業で忙しくほとんど事務所にはいません。実質、上司と二人で図面を描いていました。小さな事務所でしたがマンションや公園、住宅などを幅広く手掛けているだけでなく、上司の大森さんは建築に非常に熱心な設計士でした。村野藤吾、フランクロイドライト、レンゾピアノ、槇文彦、ルコルビジェ・・・・多くの建築家の書籍や図面を持ち出しては沢山の事を教えてくれました。大森さんから教えられた建築知識は今でも生きています。濃密な建築の時間でした。図面を引くことに苦痛はありませんでした。ただ若かった私は、繰り返される日々を徐々に退屈だと感じていました。このまま設計士になっていくのだ。この豊橋で暮らしていくのだ。脱したかったそれまでの暮らしから少しだけ離れられた。少し先の未来を考えるとずっと同じ未来が続いている感覚。このままなのか。そういう気持ちは両腕の腱鞘炎として現れました。
当時はCADで図面を描かず、手作業で描いていました。ドラフターという道具を使って描きます。いつの間にか、私は手を壊してしまい図面をスムーズに描けなくなりました。昔からお世話になっている永井接骨院へ通院。永井先生は私の相談にいつも乗ってくれました。私が「料理に興味があるから料理の世界で働きたい」と話した時に先生は「甘ったれるんじゃねぇぞ!」と怒鳴った。中学時代から数えても怒鳴られたのはそれが初めてでした。まともに働けないヤツが料理なんか作れるわけないだろうが。先生は私の甘さを見抜いていて、「料理くらいなら」という気持ちを断じました。設計事務所で働きながら仕事の後にアルバイトもしていました。パチンコ屋や喫茶店、ファミレスなどです。そのどれもが「適当」な感覚でした。私にとって働くことというのはいつからか「適当にこなすもの」になってしまった。先生はその姿勢を断罪しました。再就職して2年足らず。私は設計事務所を辞めて道路工事の警備員をしつつ両手の治療に専念しました。
「違うものになる」というのはこんなことじゃない。ある水準の暮らしを手に入れて安穏として、働くことも適当な気持ちで、考え方も適当で、未来を容易く見通せる気になって、自分は少し頑張ればなんでも出来るという気になって、20歳の水谷少年は世間をバカにする様になった。昔の自分をバカにする事でそれと決別できたような気分になった。早く抜け出したい気持ちは自分を特別なものとして見る事で、誤魔化せる気がした。しかし「違うものになる」というのはこういう事じゃない。こんな水谷少年と仲良くしてくれたのが大学生の土肥くんとフリーターの小林くんでした。彼らは私の一つ上。アルバイト先で知り合い、気が合ってよくカラオケに行ったりびっくりドンキーでパフェを食べたりしました。東洋哲学を勉強している土肥くん。自由な印象の小林くん。彼らは私の憧れだった。彼らと一緒なら違うものになれる気がしました。
20歳の誕生日に私は絵画の展示会へ行き、イルカの絵を買います。5年ローンを組んで54万円の借金を抱えます。ダナクイーンというラッセンも認めたという女性が描いたイルカでした。私は高額の絵を買うことは「豊かさ」だと考えたのでしょう。私は豊かになりたかった。私は豊かだと思いたかった。絵なんてものに高額を支払うゆとりを持っていると思いたかった。土肥くんも小林くんもイルカの絵を笑いました。私は意地があったはずなのに、彼らが笑ったイルカを後悔しました。こんなものを買うなんて。土肥くんは「ミズタニー。高い勉強代じゃのう」と言いました。そんな風に考えられる人になりたい。私はその月の末で設計事務所を退職したのに、イルカは部屋にやって来ました。警備員をしながら手を治し、働きたいレストランも探しました。この時に訪れた、東京 煉瓦亭の木下さんに「君は愛知なのだから東京じゃなく名古屋で探すべきだ」と助言をもらいます。
『味の三人勝負』という山本益博さんが書いた本に「銀座 煉瓦亭」は載っていました。私はその本を穴が空くほど読んで、レストランで働く事を想像していました。27年振りの大雪が降った東京。「フィリップスタルクの設計だ。」浅草橋のサウナに泊まり、朝に風呂から眺めたアサヒビールのビルをよく覚えています。凍った道を歩いて煉瓦亭を探しました。ポークカツレツとカキフライを食べました。信じられない美味しさでした。事情を話し、働きたいと相談します。「人手は欲しいが、君は東京へ来るべきじゃない」と木下さんは言います。東京は君のような純粋な人間が来ない方がいい。名古屋で探すべきだと助言され、名古屋でレストランを探します。名古屋でハンバーグが美味しいお店を見つけ、「働きたい」と相談をしたら「他のお店を紹介する」となりました。私は紹介してもらったレストランで働くことになります。
ガルゴッタ ガウディオ。名古屋の名東区よもぎ台にありました。今はもうレストランはありません。ハンバーグが美味しかったお店は姉妹店のキッチンガルゴッタでした。そのお店も今はありません。キッチンガルゴッタは人手が足りていて、ガルゴッタガウディオは人手が足らなかった。「ハンバーグくらい作れるようになるから」とガウディオの方を紹介されました。ガルゴッタガウディオは地中海料理レストランでした。スペイン料理とイタリア料理、フランス料理が中心でした。当時のシェフが熊谷喜八さんの弟子だったこともあり、スパイスの技法や無国籍と呼ばれる料理もありました。私は調理技術の基礎をここで身に付けます。直属の先輩にはイビられました。その人は遅刻をするし、嫌味は言うし、自身のミスは誤魔化すし、意味のわからない作業を指示するし、嫌いでした。「豊橋の田舎者」という眼差しも手伝い、よくバカにされました。私は働き始めたうちはキッチンガルゴッタの先輩と同居していましたが、半年して部屋を借りました。千種高校の北側の文化住宅でした。イルカも一緒です。
2年程してシェフがオーナーに内緒でレストランを作りました。そのお店に先輩が行くことになりガウディオを辞めます。私がメインに立つことになりました。内緒のレストランは半年を持たずに閉店します。先輩はそのままコックを辞めました。私はメインに立てるようになり、より一層、我が強くなりました。面倒臭い人間になった。どこか偉そうで、自分の意見は正しいと譲りませんでした。シェフにも好かれず、孤立する事が多くありました。性格の歪みと、這い上がって来た意地と、与えられた役職とが歪なプライドを作りました。当時、同じ歳のスタッフが2人いました。2人ともアルバイトで、1人は厨房で働く大橋くん。もう1人はホールで働くツヨシ。同じ歳ということもあり、よく話しました。私は2人の存在があって、孤立を免れるようになります。
大橋くんは他のレストランでも働くコックでした。ツヨシは大学生でした。イルピアットで出しているピザの作り方は(レシピは違いますが)大橋くんから教えてもらったものです。ツヨシは香川県高松市の出身で二浪時代を京都で過ごしていました。私は特にツヨシの人柄に憧れを持ちます。豊橋の土肥くんにも似た軽やかさを感じました。人から好かれて、気にしいで、困っている友人を放って置けない。音楽にも詳しくて、オシャレで、いわゆる「大学生」でした。ある時に私がレストランを辞めたいとこぼした時にツヨシから「優しく言われたいんか」とたしなめられた事があります。「同じ歳で自分のやりたい事をやってるよしお君は凄いんやで」と。「いつか君がお店を作ったらどこにいても絶対に食べに行くからな」と。ツヨシからそう言われて、報われた気がしました。私は少しずつ、自分が変わって来ている事に気付きます。やっと、「違うもの」になり始めます。
つづく