ミズタニ行進曲6
頑なな少年期だった私が大学に入学しました。大学には全てがありました。それまでの疑問や不可解さ、不条理さ、理不尽、報われない事、貧困の理由、言葉の使い方、ロジックの組み立て方、学習方法など。大学に入るまで私は学習方法を殆ど身につけていなかった事に気付きます。本の読み方、その重要性、文脈の構造、論理の構成、何も知りませんでした。貪るように、勉強しました。それは本当に革命的な出来事でした。生まれ変わる気持ちでした。それまでの自分と決別する決意だったし、そうあるべきだと思いました。学術は自分を救ってくれる。学習は自分を高めてくれる。知識欲は自分を向上させてくれる。何もかもが新鮮で、何もかもが自由でした。学習すれば評価される。議論すれば深まる。書けば書くほど文章は面白くなる。どの教員も素晴らしい知識を持っていて、自分の持つ問題には全て答えがあるような気になりました。少年期の頑なさは感情論から卒業し、やっと論理性を獲得したと思いました。
大学一回生の12月。豊橋の小林くんが自分で自分を刺してしまいます。何とか一命を取り留めたものの自ら声帯を傷付けた代償は大きく、声が出にくくなってしまいます。小さな声になってしまって社会復帰に挫けてしまった。彼は引きこもりました。私はそれでも何度も豊橋の彼の元へ足を運びました。二回生の時に引きこもりについてレポートをまとめました。しかしこんな机上の論理で彼を救えるとは到底思えませんでした。頭でっかちになり掛けていた自分に突き付けられた現実は、「目の前の現象をきちんと見る」という現場主義を芽生えさせます。何のための社会学か。社会の構造や問題の背景を分かったように名付けることが使命じゃない。社会学はそんな薄っぺらじゃない。もっとリアルなドロドロとした希求に身を置きたい。単なる学術ではなく、きちんと伝えられることがしたい。小林くんの一件は私に社会学の本質を突きつけました。二回生ゼミの山口先生はそういう私を見抜いていて、本当によく鍛え上げて下さいました。
三回生になると引きこもりを突き詰めても答えはないという答えを出していました。私は他の視点が欲しくなり、社会貢献や福祉制度や教育問題よりももっと身近で語り合いやすい事柄を突き詰めたいと考えました。出会ったのがカルチュラルスタディーズでした。山下先生による指導のもと、メディア分析に興味をシフトします。漫画の構造分析から始まり、あらゆるメディアの分析を対象にしました。私はウルトラマンの作品分析をしました。「ウルトラマンが世相風刺番組であることを明らかにする」というタイトルでウルトラマンについて論文を書きました。これは受けが良く、学部長表彰制度で教育賞をもらいます。俄然、やる気になった私は卒業までメディア分析を中心に学習をしました。卒論は「ウルトラQ」の作品分析でした。教育賞で獲得した賞金5万円を費やしてウルトラQのDVDを全巻購入して挑みました。とても充実した時間でした。
立命館大学ではゼミ以外に、社会思想論という専門科目がありました。尾場瀬一郎先生が担当教員です。私の大学生活を決定付けた先生です。単なる一講義に過ぎなかったのですが、尾場瀬先生から多くの書籍を紹介されました。社会学の奥深さと意味を先生から学んだと思っています。講義後によく話もしました。意見をぶつけてはきちんと返してくださる先生に憧れを抱きました。「甘えたロジックを許さない」という静かな凄みがあり、私はいつも頭をフル回転させて挑みました。「もっと水谷くんらしくていい」と繰り返し言ってくれたのも先生でした。「本に書いてある論調よりも君の書く文章にこそ迫力はある」と持ち上げてもくれました。徹底した現場主義でしたし、単なる想像や仮説を看破する先生でした。最後の答えを示してはくれず、「自分で考えたまえ」というスタンスでした。どんな会話も心地よく思いました。
多くの素晴らしい教員に出会いました。尾場瀬先生だけでなく、本当に刺激的な時間でした。充実した大学生活の4回生後期。9月21日に小林くんが亡くなります。数日前に「身体が痛い」と言うので救急搬送されていました。「やっと部屋から出せた」と喜びの電話をお母さんからもらったばかりでした。夕方に電話をもらい直ぐに駆け付けると、小林くんはやり終えた表情をして寝ていました。私は自分の力のなさが堪らなかった。悔しい。悔しい。悔しい。なんて事だ。どうしてこうなってしまったんだ。こうならないようにと、社会学を学んできたのじゃないのか。何にも力がないじゃないか。なにが、社会学だ。また、友人を救えなかった。どうしてだろうか。悔しい。嫌だ。逡巡と悔しさと無力さが湧いてきます。大学の同級生に思わず電話を入れて気分を変えようとしたけれど、その友人はカラオケをしていてとても明るい。ああ、いつもの通りだ。日常じゃないか。と思った途端、ボロボロと泣いてしまった。もうここには日常がないのに私は日常の端っこにいる。こんな残酷な事、どうつじつまが合うというのだ。「どうしたの?」と聴く友人に事情を打ち明けてしまった自分も悲しくてボロボロ泣いた。興ざめだ。せっかくカラオケを楽しんでいるというのに。小林くん、どうしてだ。
私はいつもの様に翌日、三木鶏卵でだし巻きを焼きました。とても快晴で、雲ひとつない空だったことをよく覚えています。事情を話して葬儀の日はお休みをもらいました。岡山の土肥くんも駆け付けて久しぶりの再会でした。土肥くんとはそれきり、会っていません。繋がりだった小林くんが居なくなり、疎遠になってしまいました。私はどうしても自分の何かを変えたくて生まれて初めて髪を金髪に染めました。何か変われるような気がしました。実際には何も変わらなかったのですが、卒業アルバムは金髪写真になりました。ただの一度だけ、後にも先にもその時だけ染めたことを覚えています。「社会学の無力さを痛感しています」と親しい先生らに打ち明けると「だからこそ、社会学に力があると証明しなくてはならない」と同じように言われました。尾場瀬先生も「水谷くんにしか分からない社会学があるし、それをどうして行くのかも君しか分からない」と言われました。生き残った私に出来ること。「続けるべきなのだ」という思い。どう続けて行こうか。
つづく