ハリーポッターをもうすぐ読破するかの子について。
気が付けば2020年も1月20日。今日は月曜日なので定休日でした。今は自宅のダイニングテーブルでこの入力をしています。朝から紙屋川へ出かけて銀行の入出金や支払い、伝票整理、アルバイトの給与計算とまとめなどをこなしました。ランチはスタッフのともちゃんとスケロクさんでビフテキランチ。贅沢な時間。午後2時過ぎにヨドバシカメラへ出かけ、壊れた電子辞書を新調しました。それから四条へ出かけ、カフェルッカでデカチョーのラブマッキアートを飲み、エビスジーンズに明日から履くデニムを引き取りに行きました。そうこうして夕方になり、晩ご飯も風呂も済んで、いまに至ります。
かの子がもうすぐ、ハリーポッターを全巻読み終えます。全7巻もある。5巻からは上下巻になり合計で10冊も読み終える計算。小2の間に達成するとは思いませんでした。すごく熱心に読んできました。本当に凄いことです。わが子ながら、驚きです。ご褒美というか、達成した記録への敬意というか、家族でUSJに出かけることになりました。確かに私は「小2の間に読み終えたら連れて行こう」と約束しましたが、できるはずがないとタカをくくっていたのでした。いい意味で裏切られ、清々しいです。本当に驚かされます。そして、みくびるものではないと反省をしました。
缶の貯金箱には小銭が入っています。これは元々、私がポケットに残った小銭を入れてきた事が始まりです。かの子がハリーを読み進める様を見ながら、何となく、この貯金箱はかの子が読破した報酬(お小遣い)にしようと考えるようになりました。来月USJへ行く前に、貯金箱を開けてまとめようと思います。そのお金はかの子がUSJで使えばいい。自分が好きな事をして、達成して、報酬を得て、その報酬で好きなものを買う。簡単に出る成果では意味がありません。そして、始めにその報酬が設定されていた訳でもありません。かの子の目標は「読破のみ」です。しかし、読み続ける姿に私も感心しました。そしてそれはこんにち、尊敬になっています。かの子をどう報いてあげられるだろうか、と考えました。
そもそも、USJに行くこともかの子が「行きたい」と言ったのではないのです。私がからかい半分で言ったのです。達成は難しいだろうし、もし万が一に読破できればそれに報いるくらいの気持ちはあるぞ、という面白半分でした。かの子は自分がすることの報酬など考えてこなかったのです。だからこそ、その純粋性に私も憧れた。からかい・面白半分という他の半分は「期待感」と「憧れ」でしょうか。私が小2だった時とはまったく比較にならない。今回の読破でかの子は、一生懸命に取り組めば応援の声も、支持も、周囲の気持ちも、眼差しも、自分をバックアップしてくれるという経験も、少しだけ手にできると思うのです。私はきちんと報いられて欲しいと思うものです。
貯金箱は少しの期間、紙屋川に置きます。かの子に感心くださる方は小銭を「寄付」としてください。きちんと、かの子に渡します。彼女は自分で獲得した共感(寄付)で初めて買い物をします。お年玉でもない。約束されたお小遣いでもない。祖父母からの臨時収入でもない。かの子がハリーを純粋に読破して、USJに行く機会を獲得して、自分の成果に共感くださる方々から資金を得る。「ハリーを読破します!USJで買い物をしたいのでクラウドファンディングします!」という感じでしょうか。子どもを使った商売のように捉える方も見えるでしょうか。私は「子どもを使って」と認識していませんし、これを商売とも捉えていません。なぜなら、かの子の達成に報いたい気持ちしかないのですから。とてもデリケートな内容かも知れません。かの子はまだ8歳ですが、私はあまり「子どもだから」と接していません。そして今回の読破は尊敬できる事だと思っています。
かの子は報酬を求めている訳ではないのです。もちろん、私も求めていません。私はただの「すごいね」「えらいね」「がんばったね」という言葉だけでなく、実感を経験して欲しいと思うのです。かの子をバックアップしたいという気持ち(よくぞ読破したな、という気持ち)が「USJでの買い物」という機会も産むのなら、買い物の時にも買い方を考えるかと思うのです。「自分が手にしたお金は自分がハリーを読破した姿への寄付だ」と、自己完結するかも知れません。その場合は他者に何も買わない。もちろん、それでも構わない。しかし欲を言えば、友人や寄付くださった方に気持ちを向けてくれたらと思うばかりです。「そうしなさい」とは言いません。私は気持ちのどこかで「自分がそうしてできる事(今回はUSJでお買い物)はみんなが支持・共感してくれたおかげである」と思うはずです。その感謝をかの子がどう扱うのかを見てみたい。そうなのです。かの子は私に「見てみたい」を毎日、与えてくれています。毎日、ワクワクをくれます。
今回の寄付(共感)が家族からだけでなく、間接的にかの子を知る人たちから寄せられる事に価値があるのでは、と私は思うのです。家族はある意味でも無条件な存在です。私と妻は無条件にかの子と接します。教育などに関わる部分の条件は別にして、私たち夫婦は「いつでもできてしまう」のです。家族以外の人たちは違います。社会は「家族・親族」か「それ以外」かという捉え方を持っています。かの子は「それ以外」の人から得る眼差しの成果によって今回、自分が何かを得る機会の入り口に立てます。今の世界はこの感覚が乏しいからか、自分が何者であるのかを考え始める年齢は10代後半かと思います。私はこんなに物や情報が溢れてしまった世界で、自分が何者かを考えなくてもなんとなくやり過ごせるような雰囲気がとても恐ろしい。「それ以外」の人たちとのコミュニティから得る報酬は早い方がいい。そしてそれは適当であってはならない。容易くてはならない。大人と同様に扱われるべきだと考えます。
私に日々、ワクワクを与えてくれる彼女もいつか独立をします。そしてそれは、早いだろうと思っています。かの子に至っては年齢が当てにならなくなると思っています。私は彼女の独立を支持するし、いつその判断がきてもきちんと会話ができる私でありたい。小2でハリーを読破する栄光は、彼女を大きくします。私はこの機会を充分に活かしたい。これほどの成果を今後もう、見ないのかも知れないのです。成長には他者が欠かせない。社会の繋がりを意識できる現象は可能性を与えます。「読破したらみんなが寄付してくれた!」という気持ちは一生忘れない様な気がします。大袈裟な言いようになってしまいましたが、かの子にお小遣いを与えるには充分な成果を出したと考えています。その共感をきっかけに、かの子がまた他の成果を上げるかも知れない。これは、見るしかない。私はそれをどうしようもなく、見てみたい。
今回をきっかけにかの子が欲どしくならない様に注意します。簡単に成果を求められても困るのです。私はそんなもの、認めない。しかし同様に、また長い道のりをコツコツ続けることがあれば報いようと思います。誰に言われる訳でもなく始めた読書。ハリーの次は何を見つけて来るのだろうか。それよりもまずは私も、苦手なテーマパークでも一緒に楽しめるように努めなくては。かの子の成果をきちんと保障するためにも。とりあえず、ハリーの映画でも観て予習しようかな。まさか、私まで行く事になるとは思ってもいませんでした。行くからには、楽しんできます。
子どもはみんな、社会が育てます。